ユーじいとトンくんのよもやま話 第4話 (平成17年1月)

ユーじいとトンくんの新春対談

『珍しく沈んだ書き出し』

トンくん 「あれぇ、ユーじい、えらく元気ないねぇ。」

ユーじい 「う〜ん、やっぱりそう見える?
だって去年は、あんまり辛いことばっかりあったんで、気持ちが滅入っててねぇ。
このあいだも新聞を読んでたら、こんな記事あったよ。無職の少年が寝ている両親の頭を鉄アレイでめった打ちし、殺しちゃたんだって。それもお父さんは、中学の先生だよ。たぶん、このお家でも息子と父親の言い争いが毎日のようにあったんだろうね。

 うちの子も中学になってから急に変になっちゃったから、とても他人事とは思えないんだ。

 うちの子が小さい頃、ユーじいの仕事が忙しすぎて、十分なことをしてやれなかったからなぁ。それに、「自分の息子だけは・・」って、期待をかけすぎたせいもあるんだよね。今頃とても後悔している・・。」

(しばし沈黙)

トンくん 「去年は、学校が舞台になった悲しい事件が多かったね、長崎の事件、いじめ、暴力、不登校、学級崩壊。う〜ん、数え上げたら切りがないや。」

ユーじい 「テレビをつければ、イラクでは毎日のようにたくさんの人たちが殺されている。人の命なんか、大切なものと感じられなくなっちゃうの無理ないよね。」

トンくん 「人間って、どうしてこんなに殺し合いが好きなのかなぁ? 『人の命は地球より重い』なんて嘘っぱちと思うことがあるよ。イラクではたくさんの罪もない人が殺されているんだからね。アメリカ人ってクリスチャンが多いと思ってたけど、聖書の中の『汝の敵を愛せ』の教えはどこへ行ったの?」

ユーじい 「本当だね。ブッシュ大統領を支持している多くのクリスチャンは、キリスト教原理主義といって悪を裁くことを神から与えられた崇高な使命と考えているんだね。もちろんイエスさまに戦争のような暴力を肯定するような思想は、どこにもなかったと思うけど・・。

 それに茶の間で他人事のように殺戮シーンを見ているボクたち自身も、薄気味悪く情けない存在のように思えてくるしぃ・・。

 人間って情けないなぁ〜。」

トンくん 「クゥーン。(困ったような鳴き声)」

ユーじい 「あっ、気味悪いといえば若い人たちの間で集団自殺なんかも流行ったね。」

トンくん 「若者の集団自殺って、何かの本で読んだレミングの集団自殺みたいだよ。」

ユーじい 「うん、そうそう。」

トンくん 「ところで、よく大人は『子どもたちは命の大切さを知らない』なんて言うけど、実は大人たちの方がずっと罪深いと思うんだ。」

ユーじい 「そうなんだ。『現代っ子は自然体験が不足している』とか、『核家族化している』とか、『テレビゲームをしすぎて仮想と現実の区別がつかない』とか、いろいろあっても、きっと、根はもっと深いんだよなぁ。

 最近『関係存在』という言葉を知ったよ。これはホスピス医として、重病で、もうじき亡くなってしまう患者さんのために働いている小澤竹俊さんの著書「苦しみの中でも幸せは見つかる」の中で見つけた言葉なんだ。『人はただ単に生きているのではない。人間が生きていく上において欠かせない大切なものとは何かと考えたとき、そしてその大切なものが見えてきたとき、初めて人は苦しみの中でも生きていこう(存在し続けよう)とする真の力を得ることができる』んだって。その『生きようとするエネルギー』となる最も重要なもの、それが『関係存在』なんだ。
たとえ余命いくばくもない人でも、人は自分の生きる理由を見つけたときに、強く生きることができるそうなんだよ。」

トンくん 「ふ〜ん、関係存在か。」

ユーじい 「ホスピスでは、身の回りの世話をしてくれるスタッフが、自分の苦しみを理解してくれていると思うだけで、死への不安がスゥーっと軽くなるんだって。
子どもも友だちや先生、そして親に愛されている実感、信頼されているという実感。社会に役立っているという実感。そういう、いい「関係存在」をエネルギーにして、新しい社会に希望をもって進んで行けるはずなんだ。
ところが、実際には、その「関係存在」が希薄になり生きるエネルギーをなくしてしまう。そして自暴自棄になってしまう。今の日本、物質的な豊かさとは裏腹に、心の中には空虚感が、ますます蔓延してきているって感じだよね。」

トンくん 「なるほど。」

ユーじい 「そういえばユーじい、うちの子が小さいときから、仕事の忙しさにかまけて、子どもとの極上の時間を自らの手で逃してしまっていたんだろうね。」

トンくん 「ユーじい、『モモ』っていう本知ってる?」

ユーじい 「えっ、桃? それナーに?」

トンくん 「ミヒャエル・エンデの小説『モモ』の中に、時間泥棒の話が出てくるだよ。幸せになると信じてコマネズミのように走り回り、道端に咲く美しい花にも目がとまらない・・。
今の人間を見てると、朝、子どもを送り出し、働きに出かけ、塾の送り迎え、夕食の支度・・・分刻みの忙しさ。頭の中は、『あれもしなくちゃ』『これもまだ』っいうセリフでいっぱい。

 それは時間泥棒に時間を盗まれているってことなんだけど、それに気がついていなんだよね。」

ユーじい 「うぅっ〜、耳の痛い話だなぁ・・。」

トンくん 「子どもが生まれたときってさぁ、それだけで、親はとってもハッピーな気持ちになれたよね。それが成長するに従って、どうしてあのときの感動をすっかり忘れちゃって、子どもに必要以上のものを求めるんだろう。」

ユーじい 「う〜ん、それも耳が痛いなぁ。う〜ん、やっぱり競争社会だからかなぁ?う〜ん難しい問題だなぁ〜。」

(長〜い沈黙)

 「さっきの、子どもの存在自体が喜びとして感じなくなってしまうことついてだけどさぁ。よく考えてみたけど、やっぱり親はみんな子どもを愛して、生き甲斐にしてると思うんだ。でも、この社会は、けっこう厳しい競争社会だから、自分の子どもに対する期待が大きい分、理想の子どもと現実の子どもの間のギャップに悩んじゃうんだよね。きっと・・。現実の子どもの姿に、ずいぶん落胆し、子どもの大切な心を踏みにじちゃう。ユーじいも、ずいぶん思い当たる節があるからなぁ・・。」

トンくん 「親や先生に認めてもらえない子どもたちってさぁ、自分を尊敬したり、大切にするという気持ちも芽生えてこないよね。そんな子が、他人を尊敬したり、大切にするなんて、とてもできないよ。」

ユーじい 「トンくんのいう通りだね。最近こういうのを読んだよ。

 『輝け!いのちの授業』という本なんだ。茅ヶ崎市の浜之郷小学校に初代校長として赴任された大瀬先生の授業記録なんだ。
この先生が初めての学校で校訓を作るとき、あえて「明るく元気な子ども」という文言を入れなかったんだって。
本来、元気でたくましく、未来に向かって伸びていくはずの子だけど、現実には「明るく元気」に耐えられる子が一体どれくらいいるだろうかと考えられたんだね。「明るく元気」を求める社会は、その陰の部分を作ってしまい、そこに入ってしまう子どもたちを自ら作り出してしまうことに気づかれたんだ。

 学校を、弱さを自覚した子どもたちと、無力さを自覚した先生方が「ケアと癒し」を含みこんだ応答的な営みを行う場ととらえているんだ。ケアとは他者の喜びや苦しみに寄り添い、魂の重さに気づく行為というんだ。
へへぇ、にわか勉強なんで、説明がちょっと硬かったかなぁ?」

トンくん 「う〜ん、だいぶ難しいよぉ〜。」

ユーじい 「この先生は、校長になって2年目、進行胃ガンで余命あとどれだけって告知されたんだよ。
死を直接に意識するようになったとき、親が子どもに期待するいい大学、いい会社というようなものには何の価値もなく、求めるに値しないものである。人間が最も大切にすることとは、それまで一番なおざりにしていた「命と家族」だということに気づき、残されたわずかの時間をすべて生徒の教育に捧げられたんだ。

 話は跳ぶけどトンくんもライブドアの堀江社長を知ってるでしょ。何百億という大金を稼いだんだよね。彼の著書『稼ぐが勝ち』(光文社)の中で『女はお金についてきます。ビジネスで大金を手に入れた瞬間に【とうてい口説けないだろうな】と思っていたネエちゃんを口説くことができたりする。』って言ってるね。

トンくん 「ううっ、お、女はそんなんかぁ。それにしても羨ましいな〜ぁ。」

ユーじい 「うんうん、ユーじいも羨ましい。でもね、悔しいからいうんだけど、きっと心の醜い女だけがハイエナのように堀江社長のまわりに群がってるんだろうね。(^_^;) 
女性の話はさておき、32才の若さで巨万の富を得た人って、生き方がずいぶん傲慢になると思うんだ。」

トンくん 「ホントだね。」

ユーじい 「でも、見方によってはトンくんやユーじいも堀江社長と同じようにずいぶん傲慢なところがあるんだよ。」

トンくん 「えっ、どういうこと?」

ユーじい 「もちろんユーじいもトンくんもそんなお金はないからお金の話じゃないんだ。ボクたち健康な者は健康であることに傲慢になってると思うんだ。『健康なんて当たり前。明日も、今日と同じ、健康である』と思い込み、今日も昨日と同じように無為に一日を過ごしてしまう。
 目を輝かせて今日を精一杯生きるためには、今日という日がとってもかけがえのない「特別の一日」であることを知らなくっちゃいけないってことかな。命の大切さ、愛おしさは、自分が死ぬという事実を知った上で、その視点に立って、今日の自分を見る必要がある。そして、このとき初めて、今日という日がとても輝いて見えるようになるんだ。
だから大瀬先生はね『死の立場から生を見つめ直す』授業を始めたんだよ。
 自分が今日生かさせているのは、そして自分の死後も、残された人の心の中で生かされているのは『関係存在』、つまり家族の愛や、自分のまわりの友人との友情なんだ。『彼らの心の中に生きていたときの自分の姿が刻みつけられるに違いない。彼らは自分の天国での幸せな日々を祈ってくれているに違いない。』そう思いあたったとき、先生は寂しさが半減し、幸せな気持ちになれたんだ。
 ユーじいは大学病院に勤めていたときね。ユーじいの専門は小児ガンだったので、火曜日の血液外来には、たくさんの子どもたちが治療を受けに来るの。県内はもとより他県からもやって来られるんだよ。みんな痛い骨髄の検査や苦しい抗ガン剤の治療を受けにだよ。ユーじいたちは、子どもたちのこと何でも知ってるつもりでいたけど、本当は治療を受けているときのツライ子どもたちの顔しか知らなかったんだね。

 普段大学病院で夜遅くまで働き、明るいうちに外へ出るなんてほとんどなかったユーじいだけど、そのとき何かの理由で昼休みに大学病院近くのファミリーレストランのそばを通り、何気なく中を覗いたんだ。そうしたら、そこに、いつも顔なじみの子どもたちとお父さん、お母さんが何家族もいたんだよ。子どもたちは満面の笑みを浮かべて美味しそうにお食事をしていた。このとき初めて、この子どもたちが、「ごちそう」を楽しみに、いつものツライ血液外来の治療がんばってたんだってことに気がついたんだ。
 あのときの子どもたちの幸せそうな笑顔、忘れられないなぁ。この笑顔を見たとき、ここに小さくてもみんな、それぞれの確かな幸せがあると思ったんだ。

 ここには健康な家族が享受できないような、すばらしい『生きていることの喜び』と『関係存在』があるんだ。

 きっと、大瀬先生は、このレストランで見い出されたような、ごく日常的な、でも、実は、そうではない、とっても稀な「家族愛に支えられた命の輝き」を生徒さんたちに教えたかったんだろうな。

 最後に『銀色のあしあと』を紹介してみるね。トンくんも暇なとき読んでみてよ。去年の夏、星野富弘さんという方の『絵と詩』の展覧会に行ったとき会場で買ったものなんだけどね。三浦綾子さんとの対談集なんだよ。
 星野さんは体育の先生でね、授業中に首を怪我してしまって、手足が動かなくなってしまったんだ。だから絵を描くときは口を使っておられる。この方の描かれる絵はとても口で描いたとは思えないくらい緻密で、美しく、心温まるものなんだよ。

 手を自由に使えるユーじいとしては穴があったら入りたいくらい恥ずかしい気がするよ。それに絵に添えられている詩がまたいい。生きることへの感謝と喜びが素直に表現されていると思ったな。車椅子という制限された生活だけど、心はわれわれ健康な身体をもつ者よりずっと自由だと思ったね。トンくんも知ってると思うけど、脊髄カリエスを長い間わずらい寝たきりだった三浦綾子さんとの会話の一つ一つが、とっても味わい深いと思った。

 紺碧の夏空に、「向こう山」をサァーっと駆け上がる一条の突風。山の葉っぱを次々に裏返しにしていく、その光景が、星野さんには「銀色の帯」に見えるんだって。星野さんの居間の窓から見える夏の風物詩なんだね。

 星野さんと三浦さんの生き方って、ボクたちを勇気づけてくれるよね。この本を読むと人生って悪くないなぁって思うんだ。

トンくん じっと人の話に耳を傾けるだけで人々に本当の自分を取り戻させる不思議な力をもったモモ。そんなモモみたいな人、気がつけば、まわりにも一杯いるね。

関連サイトへのリンク